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[歌曲鉴赏] 【每日一曲12.08.20】氷室京介/KISS ME(吻我)(1992)

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发表于 2012-8-22 00:17:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
氷室 京介(ひむろ きょうすけ、1960年10月7日 - )は、日本のロックボーカリスト、ミュージシャン。

群馬県高崎市倉賀野町出身。所属事務所はBeat Nix。ロサンゼルス在住。

评分

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发表于 2012-8-22 18:18:25 | 显示全部楼层
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 楼主| 发表于 2012-8-24 00:43:53 | 显示全部楼层
人物:
地元、群馬県で松井常松らと共にデスペナルティを結成し、EastWestコンテストに入賞。その後、音楽事務所ビーイングにスカウトされるが、事務所に「実力不足」を理由に強制解散させられる。

1979年、スピニッヂ・パワーのメンバーとしてプロデビューする。

1982年、氷室狂介の名前[1]で、ロックバンド・BOØWYのヴォーカリストとして、アルバム『MORAL』で再デビュー[2]を果たした。

システムに組み込まれないという価値観と性急なまでの縦ノリビートが当時20歳前後の若者に絶大なる支持を得て、日本独自のビート系ロックバンドとしてビートロックを確立し、解散までの約6年間に日本のロック界ではまだ有り得なかった数々の伝説を残した(音楽評論家の間では、よく「BOØWY以前、BOØWY以後」と表現された)。

1988年、シングル『ANGEL』でソロデビュー。同年オリコン年間順位8位となった。その後も、独自のロック美学と圧倒的なライブパフォーマンスがカリスマ的に多くのフォロワーや業界関係者に影響を与える。

1994年、ロサンゼルスに創作拠点を置いて以後、マスメディアへの露出は更に減ったが(「たとえファンが離れても仕方ないと思っていた」と後にコメント。現在は雑誌での登場は一切していない)、日本でライブコンサートを開けば今でも全ての会場が満員になる。ロサンゼルスという環境を生かして、凄腕の外国人エンジニア、アーティスト、ミュージシャン等に自らオファーをし、自らをプロデュースするという形をとっている。

クロムハーツを長年愛用し、コラボレートするなど、ファッションにもこだわりを見せている。また、左の二の腕にはタトゥーを入れている。

趣味は、ライカでの写真撮影。彼をBOØWY時代から撮影していた加藤正憲によって写真を教えてもらってもいた。 好きな写真家は、アンリ・カルティエ・ブレッソンなど。

 楼主| 发表于 2012-8-24 00:44:20 | 显示全部楼层
音楽性:
演者であることよりもクリエイターとしての活動を重視しており(そのための渡米であった)自身の時間の大半を作曲、アレンジ、録音に割き、レコーディングでは、ジョシュ・フリーズ(Josh Freese、ドラム)、マイケル・ランドウ(ギター)など、その他ロサンゼルスの売れっ子ミュージシャンを多く起用している。

デヴィッド・ボウイ、エルヴィス・コステロなどの影響をうけている。また、1990年代以降のロックの潮流であるオルタナティブ・ロックも最近の彼の音楽性に影響を与えており、本人は「あくまでニルヴァーナ以降の流れ」とコメントしている。

チャートなどはあまり興味がないらしく独創的な音楽への欲求が強い。本人曰く「俺の求めるサウンドはもう、こちら(L.A.)にさえない」とのこと。

2003年(平成15年)のアルバムリリース直後「クレームが来ないか心配だった」と語る通り、それまでのバラード重視とは打って変わり、再び荒削りなロックとしての音作りを追求した。

 楼主| 发表于 2012-8-24 00:44:55 | 显示全部楼层
作詞について:
作詞に関しては、初期は松井五郎が主だったが、最近では森雪之丞の起用が目立つ。本人曰く「BOØWY時代は、詞を書いたが、ソロではほとんど詞を書かなくなった」、「アルバム『FOLLOW THE WIND』は全て雪之丞さんに作詞を依頼した」とのこと。

自分で作詞をしなくなったのは、BOØWYのアルバム『MORAL』収録曲の「SCHOOL OUT」の詞の内容に影響された若者が「あなたの言うとおり学校を中退した」などとする内容の手紙を送って来たためで、自身の歌詞の影響力について深く知ったため、と述べている。

シングル「EASY LOVE」、アルバム『IN THE MOOD』収録曲「Ignition」では、再び松井五郎を起用した。「息子の成長を見守っている内に自分にも心境の変化があった。この世界を表現するには松井さんが適任だと思った」「彼の詞は聴き手によって、どちらの意味にも取れるので…」とその理由を述べた。


 楼主| 发表于 2012-8-24 00:45:34 | 显示全部楼层
過酷なツアー:
ライヴツアーの本数が増えて来ていることに関しては、「肉体的には疲れても精神的にはエネルギーをもらえるから」とコメントしている。

ツアーのサポート・ミュージシャンは、本田毅(ギター)、DAITA(ギター)、西山史晃(ベース)など、主要メンバーは定着している。ドラマーやキーボーディストなど起用するミュージシャンにより、変化あるツアーを実現している。


 楼主| 发表于 2012-8-24 00:45:56 | 显示全部楼层
Web関連:
2007年(平成19年)、自宅のスタジオから「青少年のいじめや自殺問題」に言及するなど、ダイレクトなコミュニケーションツールとしてのポッドキャストの配信を開始。音楽に没頭する期間は、そう頻繁に更新することは難しいが、日本だけでなく、またファン以外の人の反応もつぶさに感じ取れるとあって、熱のこもったトークが展開された。寄せられた感想などは、直接彼のパソコン上にあがる仕組みになっており、その感想などにまた彼が答える、といったやりとりが行われていた。

2007年のツアーにおける3月13日に行われたライブの映像が、4月4日からiTunes Storeにおいて順次リリースされた。公演後わずか3週間でライブビデオとしてリリースするという試みは、日本人初であった。

 楼主| 发表于 2012-8-24 00:47:10 | 显示全部楼层
経歴:
デビュー:
1979年
高校時代に、同級生の松井恒二(後の松井恒松)ら四人で結成したアマチュアバンド「デスペナルティ」で、卒業後の夏に行われたヤマハ主催の「EAST WEST '79」決勝大会において入賞(演奏した楽曲「ブルー・シガレット・ラブ」は、後にBOØWY名義の「CHU-RU-LU」として発表された。また、このコンクールでの演奏は「デスペナルティ」の楽曲として唯一音源化されている)。これを機に音楽事務所「ビーイング」と契約。しかし、当事務所社長の長戸大幸の意向でバンドは解散。解散後は寺西修一と名乗り、バンド「スピニッヂ・パワー」のシングル「BORO BORO BORO」にコーラスとして参加した。
1980年
第三期ボーカリストとしてスピニッヂ・パワーに正式加入。シングル「HOT SUMMER RAIN」、アルバム『IN & OUT』で本格的にプロデビューし、テレビ番組『11時に歌いましょう』(TBS)などに出演した。しかし、ポップス色の強かったバンドの音楽性などが肌に合わず脱退。バンド自体も解散した。

 楼主| 发表于 2012-8-24 00:47:48 | 显示全部楼层
BOØWY時代:
1980年
全てが思い通りにならず、付き合っていた彼女とも別れてしまう。どん底の状態となりついには音楽の道を諦め、群馬に帰郷する決意をする。しかし最後のつもりで立ち寄った7月5日日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブを彼女からもらったチケットで観に行って一念発起し、当時18歳の布袋寅泰[3]を電話で六本木の「アマンド」に呼び出し、バンド結成の話を持ちかけ、彼の協力のもと曲作り及び失った自らのバンドの再生を果たした。2人が再会した際に布袋は、群馬時代は硬派な印象だった氷室の風貌がニューウェーブ風になっていることに驚いたという。 9月 松井恒松が加入。 その後、深沢和明 諸星アツシが加入。
1981年
バンド名を「暴威」と命名。 5月11日に新宿ロフトでデビューライブ「暴威LOFT FIRST LIVE」を行う。 高橋まことが加入。
1982年
バンド名をBOØWYに改名。3月21日、アルバム『MORAL』でBOØWYのボーカリストとして再レコードデビュー。
1984年
12月、「狂介」から「京介」に改名[4]。
1987年
12月24日 - 既に絶頂期の人気を獲得していたBOØWYは、その年、解散という噂とともにツアーを続けていたが、ファイナルの渋谷公会堂のアンコール、氷室からバンドの終焉を宣言。
1988年
4月4日、5日完成直後の東京ドームで2日にわたるBOØWYのライブLAST GIGSが行われ、BOØWYとしての活動に幕を下ろした。
 楼主| 发表于 2012-8-24 00:48:36 | 显示全部楼层
ソロ始動:
1988年
7月21日、解散公演からわずか3か月後の7月、シングル「ANGEL」でソロデビュー。その後の7月25日に、真駒内陸上競技場で「KING OF ROCK SHOW "DON'T KNOCK THE ROCK"」ツアーも開始[5]。
9月1日、ファーストソロアルバム『Flowers for Algernon』をリリース。
10月1日、高松市総合体育館で「KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"」ツアーを開始。後に、このライヴ・ツアーの1989年1月3~4日、東京ドーム公演と、「KING OF ROCK SHOW "DON'T KNOCK THE ROCK"」ツアー公演の模様は、1989年6月28日にビデオ『KING OF ROCK SHOW of 88'S-89'S TURNING PROCESS』としてリリース。
10月7日、セカンド・シングル「DEAR ALGERNON」をリリース。
10月27日、STINGの東京ドーム来日コンサートに出演する。
12月12日 - 15日、KING SWING[6]香港ツアー(香港QUEEN ELIZABETH STADIUMにてライブコンサート)
12月31日、ファーストソロアルバム『Flowers for Algernon』で第30回日本レコード大賞・アルバム大賞、シングル「ANGEL」で金賞をそれぞれ受賞。同番組にも出演。
1989年(平成元年)
7月21日、Charlie Sexton(ギターリスト)の東京公演にゲスト出演。
7月26日、サード・シングル「SUMMER GAME」をリリース。
8月6日、「HIROSHIMA '89 LIVE」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演)。
9月6日、シングル「MISTY〜微妙に〜」リリース。
9月27日、2nd アルバム『NEO FASCIO』リリース。
10月6日、群馬音楽センターで「"NEO FASCIO"TOUR」を開始。
1990年(平成2年)
2月26日、福岡国際センターで「"NEO FASCIO ENCORE" TOUR ARENA '90」を開始。後に、このライヴ・ツアーの1990年4月3日、東京ドーム(最終日)公演の模様は、1990年7月27日にビデオ『NEO FASCIO TURNING POINT』としてリリース。
4月13日 - 18日、KING SWING ハワイツアーを敢行。
5月16日、シングル「JEALOUSYを眠らせて」リリース。
7月7日、「GOLDEN AGE OF R&R(日比谷野外音楽堂)」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演[7])。
8月6日、「JT SUPER SOUND '90(真駒内陸上競技場)」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演[8])。このイベントには布袋寅泰も出演していた。
8月12日、「ロックンロールオリンピック(スポーツランドSUGO)」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演)。
10月27日、ARBのラストコンサート(代々木体育館)にゲスト出演(「TOKYO CITYは風だらけ」を競演する)。
12月24日、ビデオ『Birth of Lovers』リリース。

 楼主| 发表于 2012-8-24 00:49:01 | 显示全部楼层
1991年(平成3年)
2月27日、シングル「CRIME OF LOVE」リリース。
4月6日、3rdアルバム『Higher Self』リリース。
5月9日、群馬音楽センターで「OVER SOUL MATRIX TOUR 1991」を開始。後に、このライヴ・ツアーの1991年8月22~23日、横浜アリーナ公演の模様は、1991年11月27日にビデオ『OVER SOUL MATRIX』としてリリース。
8月1日、「JT SUPER SOUND '91(日本武道館)」に出演(この模様は日本テレビにて放送。「LOVE & GAME」を演奏する)。
1992年(平成4年)
2月26日、シングル「URBAN DANCE」リリース。
4月25日、アルバム『masterpiece #12』リリース。
11月7日、シングル「GOOD LUCK MY LOVE」リリース。
12月7日、シングル「KISS ME」リリース。自身初のミリオンセラーを達成する。
1993年(平成5年)
1月7日、アルバム『Memories Of Blue』リリース。累計130万枚を超える大ヒットとなる[9]。
1月11日、横浜アリーナで「TOUR 1993 "L'EGOISTE"」を開始。後に、このライヴ・ツアーの1993年5月12日、国立代々木競技場第一体育館(最終日)公演の模様は、2009年2月25日にDVD『L'EGOISTE』としてリリース。
4月28日、ビデオ『CAPTURED CLIPS』リリース。
1994年(平成6年)
8月29日、シングル「VIRGIN BEAT」リリース。
9月26日、アルバム『SHAKE THE FAKE』リリース。
10月12日、横浜アリーナで「SHAKE THE FAKE」ツアーを開始。後に、このライヴ・ツアーの1994年12月24~25日、東京ドーム公演の模様は、1995年12月10日にビデオ『LIVE AT THE TOKYO DOME SHAKE THE FAKE TOUR』としてリリース。
自身の希望により家族とロサンゼルスに渡米[10]。
 楼主| 发表于 2012-8-24 00:49:52 | 显示全部楼层
渡米後:
1995年(平成7年)
3月7日、「阪神・淡路大震災チャリティーコンサート」に出演する(布袋寅泰も出演)。
7月19日、ベスト・アルバム『SINGLES』リリース。
10月、東芝EMIからポリドールへ移籍。個人レーベル“BeatNix”設立[11]。
10月25日、シングル「魂を抱いてくれ」リリース。
1996年(平成8年)
6月24日、シングル「STAY」リリース。
8月15日、シングル「SQUALL」リリース。
9月30日、アルバム『MISSING PIECE』リリース。
1997年(平成9年)
1月15日、シングル「WALTZ」リリース。
5月14日、ビデオ『MISSING PIECE』リリース。
6月4日、シングル「NATIVE STRANGER」リリース。
10月29日、シングル「HEAT」リリース。
12月10日、アルバム『I・DE・A』リリース。
1998年(平成10年)
6月24日、ベスト・アルバム『Collective SOULS 〜THE BEST OF BEST〜』リリース。
7月15日、横浜アリーナで「TOUR "COLLECTIVE SOULS"1998 One Night Stand」を開始。後に、このライヴ・ツアーの1998年9月19~20日、横浜スタジアム公演の模様は、1998年12月9日にCDライヴ・アルバム『The One Night Stands 〜TOUR "COLLECTIVE SOULS" 1998〜』としてリリースされ、また、12月24日には同じ内容のライヴを収録したビデオ『The One Night Stands 〜TOUR "COLLECTIVE SOULS" 1998〜』をリリース。
1999年(平成11年)
8月18日、シングル「SLEEPLESS NIGHT 〜眠れない夜のために〜」リリース。
10月27日、シングル「ダイヤモンド・ダスト」リリース。
12月24日、ビデオ『100152』リリース。
2000年(平成12年)
1月15日、シングル「永遠 〜Eternity〜」リリース。
2月23日、アルバム『MELLOW』リリース。
6月28日、シングル「炎の化石」リリース。同時に、過去にポリドールでリリースされた8cmCDシングル6枚がマキシ・シングルとして再発売された。
10月18日、アルバム『beat haze odyssey』とDVD(CD-ROM)『Digital BeatNix Tower』を同時にリリース。また、結城市民文化センターで「KYOSUKE HIMURO TOUR 2000"BEAT HAZE ODYSSEY"」を開始。
12月31日、「KYOSUKE HIMURO TOUR 2000"BEAT HAZE ODYSSEY"」のファイナル公演として国立代々木競技場第二体育館にて自身初となるカウントダウンライブ(公式ファンクラブKING SWING会員限定)を開催。
 楼主| 发表于 2012-8-24 00:50:38 | 显示全部楼层
2001年(平成13年)
1月1日、シングル「Girls Be Glamorous」リリース。
9月27日、ベスト・アルバム『Ballad ~La Pluie』リリース。
2002年(平成14年)
ポリドールから東芝EMIへ移籍。
2003年(平成15年)
ソロ15周年に当たるこの年、ベスト・アルバム『Case of HIMURO』が3月19日にリリースされた。その後の2003年7月20日、さいたまスーパーアリーナで「15th Anniversary Special LIVE "Case of HIMURO"」と称したライブを行った[12]。そのライヴの模様は、2003年11月25日にDVD『Case of HIMURO 15th Anniversary Special LIVE』としてリリース。
7月21日、シングル「Claudia」リリース。同時に、過去に東芝EMIでリリースされた8枚のCDアルバムが再発売された。
8月20日、アルバム『Follow the wind』リリース。
8月29日、市原市市民会館で「KYOSUKE HIMURO TOUR 2003 "HIGHER THAN HEAVEN"」を開始。後に、このライヴ・ツアーの2003年11月23日、国立代々木競技場第一体育館(最終日)公演の模様は、2004年8月18日にDVD『HIGHER THAN HEAVEN〜AT YOYOGI NATIONAL STADIUM』としてリリース[13]。
2004年(平成16年)
9月8日、シングル「Wild Romance」リリース。
8月22日、東京ドームでしばらく封印していたBOØWY時代の曲を自らのソロ曲と共に演奏する「KYOSUKE HIMURO "21st Century Boowys VS HIMURO"」を行い、5万5千人のファンが全国から集まった。そのライヴの模様は、2004年12月24日にDVD『21st Century Boøwys Vs Himuro』としてリリースされ、また、同じ内容のライヴを収録したCDライヴ・アルバム『21st Century Boøwys Vs Himuro』も同時にリリース[14]。
9月19日、羽生市産業文化会館で「KYOSUKE HIMURO TOUR 2004 "SOUL STANDING BY〜"」を開始。後に、このライヴ・ツアーの2004年12月25日、国立代々木競技場第一体育館(最終日)公演と、2004年11月8日、ZEPP TOKYO公演(Zepp Tokyo ver.)の模様は、2005年12月24日にDVD『SOUL STANDING BY~』として(氷室の公式サイト内の限定販売のみで)リリース。
NBAのシャキール・オニールが所有していたビバリーヒルズにある豪邸を約7億円で購入し、11月7日付の米ロサンゼルス・タイムズ紙などで取り上げられた。
2005年(平成17年)
9月14日、スクウェア・エニックスより発売された映像作品「ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン」のテーマ曲としてアルバム『NEO FASCIO』収録の楽曲「CALLING」が使用された[15]。
12月31日~2006年1月1日に、幕張メッセ国際展示場・9-11ホールで「KYOSUKE HIMURO COUNTDOWN LIVE ~CROSSOVER 05-06~」と題したカウントダウン・ライヴを行う。そのライヴの模様は、2009年4月29日にDVD『KYOSUKE HIMURO COUNTDOWN LIVE CROSSOVER 05-06 1st STAGE/2nd STAGE』としてリリース。
2006年(平成18年)
2月8日、シングル「EASY LOVE」リリース。
3月31日、DVD『Kyosuke Himuro/Captured Clips 1988-2006』リリース。
8月2日、GLAYとのコラボレーション・シングル「ANSWER」リリース。
8月5日 - 6日、GLAYと「KYOSUKE HIMURO+GLAY 2006 at AJINOMOTO-STADIUM "SWING ADDICTION"」を味の素スタジアムで開催した[16]。
10月4日、シングル「SWEET REVOLUTION」リリース。
11月27日、GLAYのツアーを京都会館第一ホールで観覧、アンコールで飛び入り出演する。
12月20日、アルバム『IN THE MOOD』リリース。
2007年(平成19年)
2月24日、市原市市民会館で「KYOSUKE HIMURO TOUR 2007 "IN THE MOOD"」を開始。後に、そのライヴ・ツアーの2007年7月8日、さいたまスーパーアリーナ(最終日)公演の模様は、2008年6月11日にDVD『KYOSUKE HIMURO TOUR 2007"IN THE MOOD"』としてリリース。
7月16日、ap bank fes '07にシークレットゲストとして出演し、会場を驚かせた(ファンにも当然知らされていなかった[17])。
2008年(平成20年)
6月11日、** 6月11日、ベスト・アルバム『20th Anniversary ALL SINGLES COMPLETE BEST JUST MOVIN' ON 〜ALL THE-S-HIT〜』リリース。同時に、2003年発売のアルバム『Follow the wind』をノンコピーコントロール仕様で再リリース。
7月20日、さいたまスーパーアリーナで「KYOSUKE HIMURO 20th anniversary TOUR 2008 JUST MOVIN’ ON -MORAL~PRESENT-」を開始。後に、このライヴ・ツアーの2008年9月14日、横浜アリーナ公演の模様は、2009年1月21日にDVD『20th ANNIVERSARY TOUR 2008 JUST MOVIN' ON -MORAL~PRESENT-』としてリリースされ、また、2008年9月2日、日本武道館公演の模様を収録したDVD『20th Anniversary TOUR 2008 JUST MOVIN' ON -MORAL~PRESENT- Special Live at the BUDOKAN』を2009年7月21日に(氷室の公式サイト内の限定販売のみで)リリース。
9月21日、KYOSUKE HIMURO 20th anniversary TOURの札幌公演にシークレットゲストとしてGLAYが飛び入り参加。「ANSWER」と「SUMMER GAME」で再度共演する。
2009年(平成21年)
9月19日、EIKICHI YAZAWA ROCK'N'ROLL IN TOKYO DOMEへシークレットゲストとして参加。
9月27日、LIVE for LOVE We support WaterAid 横浜スタジアム
2010年(平成22年)
9月4日、市原市市民会館にてSpecial Preview Live for KS PREMIUM MEMBERSと題した会員限定ライブ開催。
9月9日、日本武道館にてTOUR2010-11 BORDERLESS "50x50 ROCK'N'ROLL SUICIDE"を開始。
12月31日、日本武道館にて自身三度目となるカウントダウンライブ開催。
 楼主| 发表于 2012-8-24 00:51:00 | 显示全部楼层
2011年(平成23年)
2月12日、横浜アリーナにてTOUR2010-11 BORDERLESS "50x50 ROCK'N'ROLL SUICIDE"終了。
6月11日(土)、6月12日(日)に東京ドームで東日本大震災の復興支援を目的とするチャリティ公演「KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME“We Are Down But Never Give Up!!”」が行われた。
当初、同日同会場で、50歳のアニバーサリー公演を予定し、3月14日に発表する準備をしていたが、その直前に震災が起こったため発表を見送り、公演自体を見直していた。
東京ドームという場所柄、電力消費の問題もあるが、可能な限り節電に配慮し、最小限の電力、機材で行ったほか、氷室本人・バックバンドメンバー・コンサートスタッフの全員がボランティアとして参加し、このライブの収益金の全ては復興義援金として寄付された。
「互いの気持ちと力を合わせて支え合う運命の時。微力ではあるけれど俺なりに過酷な状況下でいまも闘っている皆さんを応援したいと思います。We are down but never give up ! 氷室京介」とコメント。
今回のライブは、BOØWYの楽曲で全編が構成された。氷室がBOØWYの楽曲を演奏する件に関してはかつてのメンバーである布袋、松井、高橋には寝耳に水であったようで[18]、高橋が氷室にエールを贈ったものの[19]、松井は氷室のアクションを高く評価しつつ、「こんな時だからこそ再び4人で手を握り合い、協力すべきだ」「残念でならない」とコメント。
また、布袋はTwitter上で氷室に関する質問攻めにあってしまった事もあり、2日程沈黙を続けていたが、その後自身のブログ上で「再結成を望む気持ちは皆さんと同じでした」と述べた上で、「そして同時に自分の中で踏ん切りがつきました」と、今後の再結成も非現実的であることを伝えた。[20][21]
2日間でライブに参加したオーディエンスは11万人にのぼり、日本でのチャリティーライブにおいて過去最多の入場者数を記録した。[22]

EMIとの契約を解消しワーナーミュージック・ジャパンに移籍。
12月17日、幕張メッセイベントホールにてKYOSUKE HIMURO SPECIAL GIGS THE BORDERLESS FROM BOOWY TO HIMURO"を開始。
12月31日、日本武道館にてKYOSUKE HIMURO SPECIAL GIGS THE BORDERLESS FROM BOOWY TO HIMURO"終了。
2012年(平成24年)
8月7日、ニューユニット:GOSPELS OF JUDAS(ゴスペルズ オブ ジュダ)※HIMURO.comにて結成発表
GOSPELS OF JUDASとは、氷室と親交の深いクリエイター達が集まり、クリエイティヴィティだけを元に、自由に遊びから生まれた音楽をデジタルツールを使ってリスナーに届けたいとして氷室が立ち上げた【DiGiTRONiX】プロ*ジェクトの一つで、氷室のレコーディングにギタリスト&アレンジャーとして参加しているL.A.在住の日本人ギタリストYUKIHIDE TAKIYAMAとのユニット。
GOSPELS OF JUDASを立ち上げた経緯を氷室曰く「氷室京介という枠に囚われず、自由に楽曲を創出する、そういった想いを共有できるアーティスト仲間と作ったプロジェクト」と語っている。この【DiGiTRONiX】はまさに、アーティスト達の音楽の遊び場「Music Play Ground」として機能している為、GOSPELS OF JUDASの「Play Within A Play」においても、氷室京介名義のオリジナル作品では見られない音楽的アプローチがなされており、全く新しい氷室京介を発見する事になるだろう。※HIMURO.comより抜粋
 楼主| 发表于 2012-8-24 00:51:46 | 显示全部楼层
楽曲提供:
水島裕
『光と影』 - 作詞:奈月大門/作曲:寺西修(1980年)
BOOWY時代の頃の2ndアルバムINSTANT LOVE収録の楽曲『FUNNY-BOY』の原曲
YOCO & LOOKOUT
『Out of Control』 - 作詞:南風太/作曲:寺西修一(1987年)
『Lookin' For The Paradise』 - 作詞:南風太/作曲:寺西修一(1987年)
奥田圭子
『STORMY NIGHT』 - 作詞:芹沢類/作曲:氷室京介/編曲:小泉まさみ(1985年)
『プラスティック』 - 作詞:秋元康/作曲:氷室京介/編曲:布袋寅泰(1985年)
小泉今日子
『3001年のスターシップ』 - 作詞:湯川れい子/作曲:氷室京介/編曲:ホッピー神山(1987年)
メロディーはアルバム『FLOWERS for ALGERNON』収録の楽曲「LOVE & GAME」と同一。
仲村知夏
『天使は眠っている』 - 作詞:森正和/作曲:氷室京介(1989年)
『BE COOL』 - 作詞:松宮晴吉/作曲:氷室京介(1989年)
メロディーはアルバム『FLOWERS for ALGERNON』収録の楽曲「LOVE & GAME」と同一。
反町隆史
『SINCERELY』 - 作詞:反町隆史/作曲:氷室京介/編曲:吉田健(1998年)
『ONE』 - 作詞:反町隆史/作曲:氷室京介/編曲:吉田健(1998年)
後に氷室は、『beat haze odyssey』で同曲をセルフカバーした。
DAIGO☆STARDUST
『MARIA』 - 作詞:DAIGO/作曲:氷室京介(2003年)
メロディーはシングル『Claudia』と同一。
KAT-TUN
『Keep the faith』 - 作詞: 氷室京介、SPIN/RAP詞:JOKER/作曲: 氷室京介(2007年)
後に『20th Anniversary ALL SINGLES COMPLETE BEST JUST MOVIN' ON 〜ALL THE-S-HIT〜』で同曲をセルフカバーした。
自身が作詞に携わるのは、アルバム『Case of HIMURO』に収録されている「CLOUDY HEART」、「ANGEL 2003」以来、4年7か月ぶり。
 楼主| 发表于 2012-8-24 00:53:21 | 显示全部楼层
出演:
映画:
裸の24時間(1984年、自主制作映画)
全編白黒映画。フィルムは傷んでしまっており、上映は不可能

テレビドラマ:
特命刑事ザ・コップ 第6話(1985年5月24日放送、テレビ朝日)
不良DJ役。崔洋一からの依頼で出演。


 楼主| 发表于 2012-8-24 00:57:27 | 显示全部楼层
KISS ME (氷室京介の曲):
『KISS ME』(キス ミー)は、1992年12月7日に発売された、氷室京介の9枚目のシングル。

前作からわずか1ヵ月後と間髪を入れずリリースされたシングル。ブティックJOYのCMソング。氷室最大のヒット曲であり、代表曲の1つとしても挙げられる。これまでに出た全てのベスト・アルバムに収録されている。
氷室は、元々アルバム用の曲として製作したが、あまりの出来の良さにシングル曲として録ることを決めたという。また、この曲のサビの部分は、自身がかつて所属していたBOØWYの楽曲「MARIONETTE」とよく似たコード進行を使っている。
4thアルバム『Memories Of Blue』の先行シングルであるが自身初、唯一のミリオンセラーを記録。
2006年の『FNS歌謡祭』で、14年の時を経てテレビ初披露となった。
ちなみに、布袋寅泰の最大のヒット曲「POISON」も、ブティックJOYのCMソングである。

収録曲:
1.KISS ME
作詞:松井五郎 / 作曲:氷室京介 / 編曲:西平彰
2.YOU'RE THE RIGHT
作詞:松井五郎 / 作曲:氷室京介

チャート最高順位:
週間最高順位1位(オリコン)
1993年年間順位13位(オリコン)






 楼主| 发表于 2012-8-24 01:00:43 | 显示全部楼层
氷室京介の官网:http://www.himuro.com/index.html
 楼主| 发表于 2012-8-24 01:07:11 | 显示全部楼层
歌曲:KISS ME(三貴「ブティックJOY」CMソング)
作詞:松井五郎
作曲:氷室京介
編曲:西平彰
歌手:氷室京介
歌词:
KISS ME その唇
その胸 逃がさない
KISS ME 孤独な夜
いますぐ 消してくれ

メビウスのHIGHWAYを 驱ける夜
泣きだした まなざしが 痛い

吐息だけの 赤いROUGE
嘘をついた 伤口のようだね

KISS ME 思い出まで
舍てたら 许せない
KISS ME いま二人
ひとつに なれるから

冻えてる三日月が 堕ちてくる
沈默を 引き裂いて 燃える

さらけだす 心さえも
爱はなにを 疑い续けるの

KISS ME その唇
その胸 逃がさない
KISS ME 孤独な夜
いますぐ 消してくれ

おまえの瞳を 见つめたまま
狂うのなら それでもかまわない

KISS ME なにもかも
悲しく 见えるけど
KISS ME なにもかも
坏れた リアルでも

KISS ME 思い出まで
舍てたら 许せない
KISS ME いま二人
ひとつに なれるから

ひとつに なれるのさ
永远になれるのさ

 楼主| 发表于 2012-8-24 01:10:29 | 显示全部楼层
歌曲の试听,单曲专辑2首歌曲高音质下载地址:http://115.com/file/an2tbll8#kiss me.rar

 楼主| 发表于 2012-8-24 01:11:43 | 显示全部楼层
专辑图片:
KISS ME.jpg
发表于 2012-8-24 23:33:18 | 显示全部楼层
谢谢你,总算发出来啦
 楼主| 发表于 2012-8-26 22:23:21 | 显示全部楼层
原版官网高清PV,欣赏地址:http://landtube.cecland.com/watch.php?id=OMyAZh_BT4s
 楼主| 发表于 2012-8-26 22:24:18 | 显示全部楼层
大好きな曲の違う魅力をみせられて更に好きになりました。 ありがとうございます♪
发表于 2012-8-26 22:26:02 | 显示全部楼层
现在才发出试听啊,怪不得没有人打分
 楼主| 发表于 2012-8-26 22:26:17 | 显示全部楼层
2006年FNS歌謡祭音乐赏受赏,欣赏地址:http://v.youku.com/v_show/id_XMTY5NjIxMDQ=.html
 楼主| 发表于 2012-8-26 22:31:59 | 显示全部楼层
ブティックjoy  氷室京介 kiss me
欣赏地址:http://landtube.cecland.com/watch.php?id=rkzukDNpeww
 楼主| 发表于 2012-8-26 22:35:38 | 显示全部楼层
氷室京介 【TOUR 2007演唱会】 KISS ME    现场版
欣赏地址:http://www.tudou.com/programs/view/0hzQkRK06mw
 楼主| 发表于 2012-8-26 22:38:02 | 显示全部楼层
本帖最后由 郭银奇 于 2012-8-26 22:39 编辑
hopeyearn 发表于 2012-8-26 22:26
现在才发出试听啊,怪不得没有人打分


额,这首歌曲很好听,银奇我希望妹妹你能够喜欢氷室大叔的这首92年究极成名曲【吻我】,嘻嘻
发表于 2012-8-26 22:45:07 | 显示全部楼层
郭银奇 发表于 2012-8-26 22:38
额,这首歌曲很好听,银奇我希望妹妹你能够喜欢氷室大叔的这首92年究极成名曲【吻我】,嘻嘻

我一会儿就听听
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