デビュー当初は、所属レコード会社・RVC(RCAビクター、RCA Victor Corporation)の意向で、当時大瀧詠一や山下達郎のブレイクで盛り上がり、巷で流行していたリゾート感覚を取り入れたシティ・ポップスの音楽スタイルを採った[1]。しかも、1作目ではアマチュア時代から敬愛していた日本の一流スタジオ・ミュージシャンをバックに、その10ヶ月後にリリースする2作目のシングルおよびアルバムはアメリカ・ロス録音で当地の一流ミュージシャンをバックにした豪華絢爛な作りのものとなった。ただし、これら二作は共に作詞・作曲はすべて角松自身によるもので収められたものの、編曲やプロデュース権は与えられず(また、何もかも初めての経験のスタジオ録音作業がどういうものかを学びながら作っていったため)、自身としては必ずしも思うような作品作りは出来なかった。さらに、大規模なプロモーションを掛けたわりには、それに見合ったヒットは適わず、商業的成功を収めることも出来なかった[2]。話題性を狙ったレコード制作及びそのセールス・プロモーションで活動拡大を図りたかった所属事務所側は角松の扱いに窮し、バンドを組んでのライブハウス出演など草の根的なライブ活動をしたい自身との活動方針の相違もあって、この後に所属事務所を移籍することになってしまった[3]。
一方で所属レコード会社側は角松の才能を評価しており、引き続き作品制作するよう支援していく。そして、1・2作目の延長線でありながらも、待望の編曲やサウンド・プロデュース、さらにはアルバム・コンセプトからジャケット・デザインまで自身で手掛けた3作目のアルバム『ON THE CITY SHORE』を出す[4]。学園祭やライブハウス出演など地道な活動も功を奏して、アルバムはオリコンチャート最高位21位を記録。それまでオリコンチャート圏外だった1・2作目以上に好調な売れ行きを示し、初のホールコンサートも敢行するなどして活動が軌道に乗り始めていく。
それらの成功をバックに、デビュー以来の夏や海といったリゾート感覚のシティ・ポップス路線から離れたかった角松は、自身の音楽的趣向であったダンス・ミュージックやニューヨークのミュージック・シーンで流行る最先端のファンクに傾倒していく。角松が書く詞も曲調に合わせて夜の街へと舞台が移っていき、1983年に12インチ・シングル「DO YOU WANNA DANCE」、続く1984年のアルバム『AFTER 5 CLASH』で、その世界を示した。商業的成功は続き、角松はこの路線に自信を深めて追求していく。そして、杏里の仕事で得た印税を使ってニューヨークへ長期滞在をし出すようになり、かの地で流行っているものをいち早く取り入れた音楽活動を行うようになっていった。7&12インチ・シングル「GIRL IN THE BOX」や代表作となる1985年のアルバム『GOLD DIGGER』は、ターンテーブルによるスクラッチやラップなど、いままでにない音を取り入れた。1980年代半ば、アルバムは発売ごとにチャート上位にランクされ、全国を縦断する大規模なコンサートツアーも出来るようになった(特に都市部では複数公演を敢行するも発売即ソールドアウトを引き起こすほどの人気となる)。しかし、商業的成功の黄金期とも言えるこの時期、アルバムやコンサートの動員の成功に比べ、シングル・ヒットには恵まれなかった。その一因として、コンスタントにシングル曲は出すものの、プロモーション戦略でテレビの歌番組に出演することを避けていたため、たとえタイアップ曲であっても、どうしても世間一般への浸透が進まなかった[5]。
1980年代後半:
音楽プロデューサー業も拍車が掛かり、それまでの杏里以外にも請け負うようになる。絶頂期であった中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』に楽曲提供および編曲もしたほか、その音楽性を買われてアドバイザーとしても加わったり、所属レコード会社で自身と同じ担当プロデューサーだったのが縁となって請け負った西城秀樹のアルバム『TWILIGHT MADE …HIDEKI』に自身が敬愛する吉田美奈子を迎えてコラボレーションしたり[6]、お笑いグループで認知度があったジャドーズの本気の依頼に応え、和製ソウルファンクバンドとしてデビューアルバム『IT'S FRIDAY』ならびにデビューシングル「FRIDAY NIGHT」から数作にわたって全面的に関わった[7]。
なかでも中山美穂へのプロデュースは“音楽プロデューサー・角松敏生”にかつてない成功をもたらした。まず最初の関わりであった1986年のアルバム『SUMMER BREEZE』に三曲提供し、その中のバラード曲「You're My Only Shinin' Star」が彼女本人が好んでいた曲であったことからライブでも頻繁に歌われるようになる。翌1987年、当時流行りのユーロビートを反映させたシングル曲「CATCH ME」は彼女にとって待望のオリコン1位を獲得。引き続いて角松のもはや看板であるダンス&ファンク・ミュージックを全面に押し出したアルバム『CATCH THE NITE』をフルプロデュース。その発売時、1988年2月22日付けのオリコンのアルバム・ランキングにて、このアルバム『CATCH THE NITE』が1位、同時期に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位で、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成した。そして、『CATCH THE NITE』レコーディングと同時にリテイクされた「You're My Only Shinin' Star」はシングルとして発表され、「CATCH ME」に続いてオリコン1位を獲得したばかりでなく、この年の第30回日本レコード大賞金賞受賞曲となって彼女の代表曲となり、2001年には彼女がベストアルバム『YOUR SELECTION』をリリースするにあたり、収録曲を決める為にホームページ上で行った投票ではシングルA面曲で1位になっている。
また、この時期から歌ものの作品以外に、自らの音楽的ルーツのひとつであるフュージョンを基調としたインストルメンタル作品を手掛けるようになっていく。1987年、初の試みとして自らのギタープレイをフィーチャリングしたアルバム『SEA IS A LADY』を発表。日本のフュージョン・シーンは沈滞化していたものの、角松の絶頂期ともあって商業的成功を収めた。このアルバムには自身のバック・バンドの面子の他にも、村上ポンタ秀一や斉藤ノブなどフュージョン・ブーム時に活躍し、またスタジオ・ミュージシャンとしても確かなキャリアを持つ彼らをリスペクトして起用した。アルバム参加メンバーでのライブ・ツアーも行われ、これがキッカケとなり、斉藤ノブはNOBU CAINEを結成。そのデビューアルバムを角松がプロデュースすることにも至った。これらミュージシャンをクローズアップした活動により、1982年以来、自身のバックバンドのベーシストであり、NOBU CAINEにも参加した青木智仁が頭角を現すようになり[8]、1989年にはやはり角松プロデュースのもと、フュージョンを主体にした初のリーダーアルバムを作る。以降、青木は角松のバックバンドやレコーディングに引き続き参加しながらも、その傍らで自身がリーダーとなったフュージョン系のセッション・ライブを行うようになっていったり、堀井勝美プロジェクトやDIMENSION、本田雅人などの他アーティストのアルバム制作やライブにも随時参加。1990年代から他界する2006年まで、フュージョン・シーンにはなくてはならない人物の一人であった[9]。
プロデュース活動:
杏里の「悲しみが止まらない」[16]のスマッシュ・ヒットを皮切りに、中山美穂、ジャドーズらをプロデュース。1988年2月には、オリコン・アルバム・ランキングにて、フルプロデュースした中山美穂のアルバム『CATCH THE NITE』が1位、自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位と、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成している。その他にも元BARBEE BOYSのKONTAや布施明、岩崎宏美、ジャッキーチェン、西城秀樹(『TWILIGHT MADE …HIDEKI』)のプロデュースなど、新人・ベテラン、および日本国外の有名人を問わずに積極的な活動を行っている。
収録曲:
1.You're My Only Shinin' Star
2.花瓶 〜hangover take with piano〜
3.You're My Only Shinin' Star 〜English Version〜
4.君という名の僕におしえたい 〜Introduction〜
5.You're My Only Shinin' Star 〜Instrumental〜
影響を受けた楽曲:
デビュー以前:
B. J. Thomas「Raindrops Keep Fallin' On My Head(雨にぬれても)」
洋楽ポップスとの出会いは幼稚園時代。その当時、自身から心惹かれた初めての曲である。自身の音楽の基本のR&Bやジャズを咀嚼してオリジナリティーのあるものを作るという、バカラック的なアプローチも含まれコード展開や転調のしかたとかも参考にしたと語っている。
The Beatles「Hey Jude」
小学4年生当時、テレビドラマか何かの主題歌でオーケストラ版の「Hey Jude」を聴いてすごく気に入り、兄からビートルズの曲だと教わりシングル盤を購入。それを聞いてさらに衝撃を受け小学5年生からギターを始め、当時はビートルズのコピーばかりをしていた。ギターを持って人前で歌うきっかけになったのはビートルズである。
シュガー・ベイブ「今日はなんだか」
『SONGS』(1975年)っていうアルバムは擦り切れるほど聴き、当時思春期の自分と相まって、いろんな風景が浮かぶと語っている。高校生までは3コード進行のロックはコピーできても、シュガー・ベイブの様なテンションコードがある曲はぜんぜん追いつかなかったが、しばらく経ってコピーできるようになり、当時良く演奏していたのがこの曲である。
鈴木茂「砂の女」(作詞:松本隆、作曲・編曲:鈴木茂)
アルバム『BAND WAGON』(1975年)収録。はっぴいえんどが解散して、鈴木茂のソロが「どんなもんだろう?」と思い聴いてみると、はっぴいえんどの音とは全く違う感じで「これはこれでいいものなのか? 僕はかっこいいと思うんだけど、どうなんだろう?」と思い、当時ディープ・パープルとか四人囃子とかをコピーしてる友達に聴かせたら「これかっこいいよ!」といわれ、自分は間違っていなかったんだと語っている。
南佳孝「プールサイド」(作詞:来生えつ子、作曲:南佳孝、編曲:坂本龍一)
アルバム『SOUTH OF THE BORDER』(1978年)収録。角松自身、南佳孝こそシティーポップと呼ばれた最初期のアーティストだと語っている。詞の世界が大人であり、当時高校生だった自分には絶対手の届かない世界だと思った。音の世界観と詞の世界観は、思春期の自身を早く大人にさせたんじゃないかなと語っている。
デビュー以後:
佐藤博「YOU'RE MY BABY」(作詞・作曲・編曲:佐藤博)
アルバム『AWAKENING』(1982年)収録。自身のデビュー後に聴いた作品。すごく洗練されており、こういう作品を出されたら追従できないなと思わされるほど、素晴らしい作品だと語っている。自身もこういう事ができないかなと思わせる程であり、コードに対してのボキャブラリーとか、メロディーに対してのボキャブラリーとか、まだまだ20歳そこそこの自分には乏しくて、真似しようとしてもできなかったと語っている。
Steely Dan「Aja」
このアルバムを初めて聴いた時に衝撃を受け、音楽的に高度なところや、こうあるべきみたいな作り方だとか、挑戦であるとか、新しさであるとか音楽の一番大事なところを集めたアルバムであり、かなり勉強になったと語っている。
Earth, Wind & Fire「After the Love Has Gone」
同曲はEarth, Wind & Fireがデイヴィッド・フォスターと組んだ最初の楽曲であり、急激に空気感がソフィスティケイトされ、夏の夕方とか聴くと、最高に気持ちが良いと語っている。
Christopher Cross「Sailing」
この曲が収録されているアルバムがバカ売れしてディスコで良くかかるようになったときに、角松自身のなかでAORは到達点を迎えたと思った。
Luther Vandross「Sugar and Spice (I Found Me a Girl)」
当時この曲を聴きかなり打ちのめされ、自身にとってはまだ遠い世界に感じ、いつかこういう世界をやってみたいと思わせたと同時に、彼の醸し出すような世界観はニューヨークの空気感を知らなければならないと強く感じ、渡米する(84年からニューヨークへ住む)きっかけとなったと語っている。
受賞歴:
第28回日本レコード大賞 優秀アルバム賞 『Touch And Go』(1986年)
第30回日本レコード大賞 優秀アルバム賞 『Before The Daylight〜is the most darkness moment in a day』(1988年)
中山美穂は「You're My Only SHININ' STAR」で金賞受賞。