ソロ活動 - 全盛期:
1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビュー。オリコン最高位は23位だった。GSの先輩であったザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦プロデュースのもとに、十数年にわたって音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田のソロ活動のスタートであった。
1972年3月11日発売の「許されない愛」、続いて「あなただけでいい」がヒット。もう1人のボーカルである萩原健一の俳優活動が本格化してPYGは実質的に形骸化、メンバーは沢田のバックバンド 井上堯之バンドとして活動していくことになった。
1973年4月21日発売の「危険なふたり」が65万枚を売り上げソロ初のオリコン1位を獲得、第4回日本歌謡大賞を受賞(歌謡大賞歴代視聴率最高の47.4%を記録)。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降、斬新なファッションが確立されることになった。翌1974年には「追憶」が58万枚を売り上げ2曲目のオリコン1位を獲得した。1974年、日比谷野外音楽堂ライブでインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山ライブでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど、化粧はこの時期からステージで行っていた。
1975年5月発売のシングル「巴里にひとり」(仏題「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE (恋人よ、世界の果てから僕は来た)」)でフランスに進出。フランスの週間ラジオチャートでトップ4に入るヒットとなり、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞する。1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。また、1974年ハワイ、1977年、1978年グアム、1979年シンガポール、1980年、1982年香港でコンサートを開催している。
1975年6月4日の27歳の時、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と結婚。同年7月20日、比叡山延暦寺で結婚式を行った。同日、沢田の比叡山ライブ(比叡山フリーコンサート)において夫婦揃ってステージに上がり、ファンに対して結婚報告を行った。
同年8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位で92万枚の売り上げを記録、沢田にとって最大のヒット曲となった。同曲は、沢田との仕事を熱望していた久世光彦が渡辺プロダクションに企画書を持ち込み、同じく作詞の提供を望んでいた阿久悠が協力。時効を間近に控えていた3億円事件をテーマにしたTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」は、今でいうボーイズラブ (BL) の要素をふくみ、犯人役のクラブ歌手の沢田がけだるく退廃的に歌った。なお、共演した岸部修三はこのドラマの放映開始から間もなく井上堯之バンドを脱退、岸部一徳と改名し俳優の道を進んだ。
久世の企画書には「この曲でレコード大賞を獲る」ということまで書いた作品であったが、同年12月7日に東京駅新幹線ホームにあふれたファンのことで文句を言った駅員と沢田が口論になり、駅員に対して頭突きをする暴行事件を起こす。結果的にその後に行われたレコ大では候補から外れた。翌1976年5月16日にも再び新幹線車中で乗客にからまれ、沢田が揉みあいの末に殴打し、二度目の暴行事件として「暴力人気歌手」とマスコミに報道され、1ヶ月間謹慎。同年9月に久世の作詞、沢田の作曲の「コバルトの季節の中で」で復帰したが、活動再開後もNHK紅白歌合戦、賞レースを全て辞退した。
翌年の1977年2月発売の「さよならをいう気もない」では、金色のキャミソールという衣装で登場。同年5月に発売された「勝手にしやがれ」はソロとして4曲目のオリコン1位を獲得。5週1位を保ち89万枚を売り上げた。曲中にかぶっていたパナマ帽を飛ばすというパフォーマンスは、子どもが学校でマネをするほど大きな話題となった。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。レコード大賞で歴代視聴率最高の50.8%も記録した。その他第8回日本歌謡大賞(視聴率46.3%)など、同年の主要な賞レースを独占した。ソロデビュー以降、すでに主要な賞レースの常連であった沢田だが、レコ大受賞シーンでは、駆けつけた萩原健一や岸部一徳などのザ・タイガース・pyg時代からの仲間に対して涙を見せた。
バックバンドをひきつれて1日3回もテレビに出演。歌番組だけではなくザ・ドリフターズなどのバラエティ番組にも出演し、「お茶の間のアイドル」として活動した。
2000年以降:
2000年11月、雑誌『日経エンタテインメント!』「J-POP巨人列伝-20世紀を駆け抜けた10人」第2位 沢田研二(第1位美空ひばり)。
2001年に過去の映像の放映解禁と同時に音楽番組「うたばん」にシングル「耒タルベキ素敵」で出演、また情報番組「新常識クイズ!目からウロコ」の司会を担当したが、その後、テレビ番組への露出はセーブ。NHK紅白歌合戦の誘いも固辞、全国ライブツアーや音楽劇、アルバム制作、舞台の主演俳優として活動している。
2002年自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。このレーベルからリリースされた沢田のオリジナル・アルバムは目玉焼きなどの独特のパッケージ・デザインが施されている。この頃から沢田の作詞に「平和」という歌詞が多く用いられるようになる。
2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインした。
2008年、60歳の還暦を記念して、初の二大ドームコンサート「沢田研二 還暦記念コンサート 人間60年 ジュリー祭り」を開催し、東京ドーム、京セラドーム大阪両日で5万4,000人を集めた。1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲を歌いきるというギネスレベルのステージを敢行。このライブは、第21回ミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞。
2010年、長年プロデューサーだった加瀬邦彦とともにザ・ワイルド・ワンズと組んで『ジュリー with ザ・ワイルドワンズ』というユニットを結成。シングル『渚でシャララ』、アルバム『JULIE with THE WILD ONES 』を発表し、全国ツァーを行った。第23回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサートパフォーマンス賞「JULIE with THE WILD ONES LIVE “僕達ほとんどいいんじゃない”」 受賞。
2011年、長年交流を絶っていた元ザ・タイガースの瞳みのるが40年ぶりにステージに復帰し、岸部一徳、森本太郎らタイガースのメンバーと共に9月8日から全国33都市で38回の沢田研二コンサートに参加。ツァー最終日の2012年1月24日、会場となった日本武道館には岸部四郎も参加し、1971年1月24日「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散した時のメンバーが再集結したメモリアルコンサートとなった。
2012年3月、東日本大震災が起こった3月11日に追悼の意味を込め、全曲震災をテーマにしたアルバム「3月8日の雲」を発表した。
2013年1月6日の渋谷公会堂での正月コンサート初日に、「オリジナル・メンバー(岸部兄、森本、瞳、加橋かつみ、沢田)でザ・タイガースを再結成してコンサートを開催する」ことを自ら発表。12月に日本武道館や東京ドームなどでコンサートを開催する予定と報じられた。予告通り、12月3日に日本武道館で44年ぶりとなるオリジナルメンバーによるライブが行われた。