ミカ・バンド解散後、「サディスティックス」を経て、1978年(昭和53年)からはソロ活動を開始。そして同年、細野晴臣、坂本龍一とともに「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成。1979年(昭和54年)から1980年(昭和55年)にかけて2度にわたるワールドツアーを敢行した。YMOは世界的な大成功を収め、日本のみならず世界の音楽シーンに多大な影響を与えた。高橋の作曲としては「ライディーン」が有名(坂本龍一が論理的な作曲法を用いるのに対して、高橋幸宏はこの曲を鼻歌から作っている)。結成当初、YMOのメンバーはヴォーカルを取らない(ゲスト・ミュージシャンに任せる)という意向を細野は持っていたが、坂本の推挽で高橋が「中国女」のボーカルを手がけたことにより、ボーカリストとしての才能も発揮。またファッション・デザインの才も発揮して衣装のデザインも手掛けていた。高橋は当時、自身のブランド「Bricks」や「Bricks-MONO」のデザイナーだった。YMO結成前、当時の坂本龍一のぞんざいな服装を見た高橋が「君はちゃんとした服装をすれば格好よく見えるのに」と服を大量に用意してコーディネートしている。1980年(昭和55年)には「POP THE HERO '80s」(ラジオ関東)のパーソナリティを(準レギュラーに当時のマネージャー伊藤洋一と供に)担当。ソロやYMOの活動の一方で、1981年(昭和56年)には鈴木慶一と供に「The Beatniks(ビートニクス)」を結成し、活動を開始する。1983年(昭和58年)4月より、「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)のパーソナリティを担当。同年12月、YMO「散開」(解散)とともに放送終了。
また同年、キリンラガービールのテレビCMとの連動企画で「サディスティック・ミカ・バンド」が木村カエラをボーカルに迎えて二度目の再結成。10月にはアルバムをリリースした。同じく2007年には同CMの企画でYMOがこれも二度目の再結成。CMでは「ライディーン」のセルフカバー版「RYDEEN 79/07」を披露し、同時にネット配信を開始。5月にはチャリティ団体「Smile Together Project」主催のライヴに(HASとして)出演、また7月には「ライヴ・アース」に出演。ワールドハピネスの主催。
2009年(平成21年)3月11日にはオリジナル・アルバムとしては22作目となるニュー・アルバム「Page By Page」がリリース。小山田圭吾をサポートに迎え同年6月6日には3年ぶりのソロ・ライヴ、7月には自ら「念願だった」というフジロック・フェスティバルに出演、10月にはフェス形式のライブハウス公演に登壇するなど単発的ながら充実のライブ活動を展開した。