シングル「EASY LOVE」、アルバム『IN THE MOOD』収録曲「Ignition」では、再び松井五郎を起用した。「息子の成長を見守っている内に自分にも心境の変化があった。この世界を表現するには松井さんが適任だと思った」「彼の詞は聴き手によって、どちらの意味にも取れるので…」とその理由を述べた。
ソロ始動:
1988年
7月21日、解散公演からわずか3か月後の7月、シングル「ANGEL」でソロデビュー。その後の7月25日に、真駒内陸上競技場で「KING OF ROCK SHOW "DON'T KNOCK THE ROCK"」ツアーも開始[5]。
9月1日、ファーストソロアルバム『Flowers for Algernon』をリリース。
10月1日、高松市総合体育館で「KING OF ROCK SHOW "FLOWERS for ALGERNON"」ツアーを開始。後に、このライヴ・ツアーの1989年1月3~4日、東京ドーム公演と、「KING OF ROCK SHOW "DON'T KNOCK THE ROCK"」ツアー公演の模様は、1989年6月28日にビデオ『KING OF ROCK SHOW of 88'S-89'S TURNING PROCESS』としてリリース。
10月7日、セカンド・シングル「DEAR ALGERNON」をリリース。
10月27日、STINGの東京ドーム来日コンサートに出演する。
12月12日 - 15日、KING SWING[6]香港ツアー(香港QUEEN ELIZABETH STADIUMにてライブコンサート)
12月31日、ファーストソロアルバム『Flowers for Algernon』で第30回日本レコード大賞・アルバム大賞、シングル「ANGEL」で金賞をそれぞれ受賞。同番組にも出演。
1989年(平成元年)
7月21日、Charlie Sexton(ギターリスト)の東京公演にゲスト出演。
7月26日、サード・シングル「SUMMER GAME」をリリース。
8月6日、「HIROSHIMA '89 LIVE」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演)。
9月6日、シングル「MISTY〜微妙に〜」リリース。
9月27日、2nd アルバム『NEO FASCIO』リリース。
10月6日、群馬音楽センターで「"NEO FASCIO"TOUR」を開始。
1990年(平成2年)
2月26日、福岡国際センターで「"NEO FASCIO ENCORE" TOUR ARENA '90」を開始。後に、このライヴ・ツアーの1990年4月3日、東京ドーム(最終日)公演の模様は、1990年7月27日にビデオ『NEO FASCIO TURNING POINT』としてリリース。
4月13日 - 18日、KING SWING ハワイツアーを敢行。
5月16日、シングル「JEALOUSYを眠らせて」リリース。
7月7日、「GOLDEN AGE OF R&R(日比谷野外音楽堂)」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演[7])。
8月6日、「JT SUPER SOUND '90(真駒内陸上競技場)」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演[8])。このイベントには布袋寅泰も出演していた。
8月12日、「ロックンロールオリンピック(スポーツランドSUGO)」に出演(sp≒eed名義でのシークレット出演)。
10月27日、ARBのラストコンサート(代々木体育館)にゲスト出演(「TOKYO CITYは風だらけ」を競演する)。
12月24日、ビデオ『Birth of Lovers』リリース。
1991年(平成3年)
2月27日、シングル「CRIME OF LOVE」リリース。
4月6日、3rdアルバム『Higher Self』リリース。
5月9日、群馬音楽センターで「OVER SOUL MATRIX TOUR 1991」を開始。後に、このライヴ・ツアーの1991年8月22~23日、横浜アリーナ公演の模様は、1991年11月27日にビデオ『OVER SOUL MATRIX』としてリリース。
8月1日、「JT SUPER SOUND '91(日本武道館)」に出演(この模様は日本テレビにて放送。「LOVE & GAME」を演奏する)。
1992年(平成4年)
2月26日、シングル「URBAN DANCE」リリース。
4月25日、アルバム『masterpiece #12』リリース。
11月7日、シングル「GOOD LUCK MY LOVE」リリース。
12月7日、シングル「KISS ME」リリース。自身初のミリオンセラーを達成する。
1993年(平成5年)
1月7日、アルバム『Memories Of Blue』リリース。累計130万枚を超える大ヒットとなる[9]。
1月11日、横浜アリーナで「TOUR 1993 "L'EGOISTE"」を開始。後に、このライヴ・ツアーの1993年5月12日、国立代々木競技場第一体育館(最終日)公演の模様は、2009年2月25日にDVD『L'EGOISTE』としてリリース。
4月28日、ビデオ『CAPTURED CLIPS』リリース。
1994年(平成6年)
8月29日、シングル「VIRGIN BEAT」リリース。
9月26日、アルバム『SHAKE THE FAKE』リリース。
10月12日、横浜アリーナで「SHAKE THE FAKE」ツアーを開始。後に、このライヴ・ツアーの1994年12月24~25日、東京ドーム公演の模様は、1995年12月10日にビデオ『LIVE AT THE TOKYO DOME SHAKE THE FAKE TOUR』としてリリース。
自身の希望により家族とロサンゼルスに渡米[10]。
2001年(平成13年)
1月1日、シングル「Girls Be Glamorous」リリース。
9月27日、ベスト・アルバム『Ballad ~La Pluie』リリース。
2002年(平成14年)
ポリドールから東芝EMIへ移籍。
2003年(平成15年)
ソロ15周年に当たるこの年、ベスト・アルバム『Case of HIMURO』が3月19日にリリースされた。その後の2003年7月20日、さいたまスーパーアリーナで「15th Anniversary Special LIVE "Case of HIMURO"」と称したライブを行った[12]。そのライヴの模様は、2003年11月25日にDVD『Case of HIMURO 15th Anniversary Special LIVE』としてリリース。
7月21日、シングル「Claudia」リリース。同時に、過去に東芝EMIでリリースされた8枚のCDアルバムが再発売された。
8月20日、アルバム『Follow the wind』リリース。
8月29日、市原市市民会館で「KYOSUKE HIMURO TOUR 2003 "HIGHER THAN HEAVEN"」を開始。後に、このライヴ・ツアーの2003年11月23日、国立代々木競技場第一体育館(最終日)公演の模様は、2004年8月18日にDVD『HIGHER THAN HEAVEN〜AT YOYOGI NATIONAL STADIUM』としてリリース[13]。
2004年(平成16年)
9月8日、シングル「Wild Romance」リリース。
8月22日、東京ドームでしばらく封印していたBOØWY時代の曲を自らのソロ曲と共に演奏する「KYOSUKE HIMURO "21st Century Boowys VS HIMURO"」を行い、5万5千人のファンが全国から集まった。そのライヴの模様は、2004年12月24日にDVD『21st Century Boøwys Vs Himuro』としてリリースされ、また、同じ内容のライヴを収録したCDライヴ・アルバム『21st Century Boøwys Vs Himuro』も同時にリリース[14]。
9月19日、羽生市産業文化会館で「KYOSUKE HIMURO TOUR 2004 "SOUL STANDING BY〜"」を開始。後に、このライヴ・ツアーの2004年12月25日、国立代々木競技場第一体育館(最終日)公演と、2004年11月8日、ZEPP TOKYO公演(Zepp Tokyo ver.)の模様は、2005年12月24日にDVD『SOUL STANDING BY~』として(氷室の公式サイト内の限定販売のみで)リリース。
NBAのシャキール・オニールが所有していたビバリーヒルズにある豪邸を約7億円で購入し、11月7日付の米ロサンゼルス・タイムズ紙などで取り上げられた。
2005年(平成17年)
9月14日、スクウェア・エニックスより発売された映像作品「ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン」のテーマ曲としてアルバム『NEO FASCIO』収録の楽曲「CALLING」が使用された[15]。
12月31日~2006年1月1日に、幕張メッセ国際展示場・9-11ホールで「KYOSUKE HIMURO COUNTDOWN LIVE ~CROSSOVER 05-06~」と題したカウントダウン・ライヴを行う。そのライヴの模様は、2009年4月29日にDVD『KYOSUKE HIMURO COUNTDOWN LIVE CROSSOVER 05-06 1st STAGE/2nd STAGE』としてリリース。
2006年(平成18年)
2月8日、シングル「EASY LOVE」リリース。
3月31日、DVD『Kyosuke Himuro/Captured Clips 1988-2006』リリース。
8月2日、GLAYとのコラボレーション・シングル「ANSWER」リリース。
8月5日 - 6日、GLAYと「KYOSUKE HIMURO+GLAY 2006 at AJINOMOTO-STADIUM "SWING ADDICTION"」を味の素スタジアムで開催した[16]。
10月4日、シングル「SWEET REVOLUTION」リリース。
11月27日、GLAYのツアーを京都会館第一ホールで観覧、アンコールで飛び入り出演する。
12月20日、アルバム『IN THE MOOD』リリース。
2007年(平成19年)
2月24日、市原市市民会館で「KYOSUKE HIMURO TOUR 2007 "IN THE MOOD"」を開始。後に、そのライヴ・ツアーの2007年7月8日、さいたまスーパーアリーナ(最終日)公演の模様は、2008年6月11日にDVD『KYOSUKE HIMURO TOUR 2007"IN THE MOOD"』としてリリース。
7月16日、ap bank fes '07にシークレットゲストとして出演し、会場を驚かせた(ファンにも当然知らされていなかった[17])。
2008年(平成20年)
6月11日、** 6月11日、ベスト・アルバム『20th Anniversary ALL SINGLES COMPLETE BEST JUST MOVIN' ON 〜ALL THE-S-HIT〜』リリース。同時に、2003年発売のアルバム『Follow the wind』をノンコピーコントロール仕様で再リリース。
7月20日、さいたまスーパーアリーナで「KYOSUKE HIMURO 20th anniversary TOUR 2008 JUST MOVIN’ ON -MORAL~PRESENT-」を開始。後に、このライヴ・ツアーの2008年9月14日、横浜アリーナ公演の模様は、2009年1月21日にDVD『20th ANNIVERSARY TOUR 2008 JUST MOVIN' ON -MORAL~PRESENT-』としてリリースされ、また、2008年9月2日、日本武道館公演の模様を収録したDVD『20th Anniversary TOUR 2008 JUST MOVIN' ON -MORAL~PRESENT- Special Live at the BUDOKAN』を2009年7月21日に(氷室の公式サイト内の限定販売のみで)リリース。
9月21日、KYOSUKE HIMURO 20th anniversary TOURの札幌公演にシークレットゲストとしてGLAYが飛び入り参加。「ANSWER」と「SUMMER GAME」で再度共演する。
2009年(平成21年)
9月19日、EIKICHI YAZAWA ROCK'N'ROLL IN TOKYO DOMEへシークレットゲストとして参加。
9月27日、LIVE for LOVE We support WaterAid 横浜スタジアム
2010年(平成22年)
9月4日、市原市市民会館にてSpecial Preview Live for KS PREMIUM MEMBERSと題した会員限定ライブ開催。
9月9日、日本武道館にてTOUR2010-11 BORDERLESS "50x50 ROCK'N'ROLL SUICIDE"を開始。
12月31日、日本武道館にて自身三度目となるカウントダウンライブ開催。
2011年(平成23年)
2月12日、横浜アリーナにてTOUR2010-11 BORDERLESS "50x50 ROCK'N'ROLL SUICIDE"終了。
6月11日(土)、6月12日(日)に東京ドームで東日本大震災の復興支援を目的とするチャリティ公演「KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME“We Are Down But Never Give Up!!”」が行われた。
当初、同日同会場で、50歳のアニバーサリー公演を予定し、3月14日に発表する準備をしていたが、その直前に震災が起こったため発表を見送り、公演自体を見直していた。
東京ドームという場所柄、電力消費の問題もあるが、可能な限り節電に配慮し、最小限の電力、機材で行ったほか、氷室本人・バックバンドメンバー・コンサートスタッフの全員がボランティアとして参加し、このライブの収益金の全ては復興義援金として寄付された。
「互いの気持ちと力を合わせて支え合う運命の時。微力ではあるけれど俺なりに過酷な状況下でいまも闘っている皆さんを応援したいと思います。We are down but never give up ! 氷室京介」とコメント。
今回のライブは、BOØWYの楽曲で全編が構成された。氷室がBOØWYの楽曲を演奏する件に関してはかつてのメンバーである布袋、松井、高橋には寝耳に水であったようで[18]、高橋が氷室にエールを贈ったものの[19]、松井は氷室のアクションを高く評価しつつ、「こんな時だからこそ再び4人で手を握り合い、協力すべきだ」「残念でならない」とコメント。
また、布袋はTwitter上で氷室に関する質問攻めにあってしまった事もあり、2日程沈黙を続けていたが、その後自身のブログ上で「再結成を望む気持ちは皆さんと同じでした」と述べた上で、「そして同時に自分の中で踏ん切りがつきました」と、今後の再結成も非現実的であることを伝えた。[20][21]
2日間でライブに参加したオーディエンスは11万人にのぼり、日本でのチャリティーライブにおいて過去最多の入場者数を記録した。[22]
EMIとの契約を解消しワーナーミュージック・ジャパンに移籍。
12月17日、幕張メッセイベントホールにてKYOSUKE HIMURO SPECIAL GIGS THE BORDERLESS FROM BOOWY TO HIMURO"を開始。
12月31日、日本武道館にてKYOSUKE HIMURO SPECIAL GIGS THE BORDERLESS FROM BOOWY TO HIMURO"終了。
2012年(平成24年)
8月7日、ニューユニット:GOSPELS OF JUDAS(ゴスペルズ オブ ジュダ)※HIMURO.comにて結成発表
GOSPELS OF JUDASとは、氷室と親交の深いクリエイター達が集まり、クリエイティヴィティだけを元に、自由に遊びから生まれた音楽をデジタルツールを使ってリスナーに届けたいとして氷室が立ち上げた【DiGiTRONiX】プロ*ジェクトの一つで、氷室のレコーディングにギタリスト&アレンジャーとして参加しているL.A.在住の日本人ギタリストYUKIHIDE TAKIYAMAとのユニット。
GOSPELS OF JUDASを立ち上げた経緯を氷室曰く「氷室京介という枠に囚われず、自由に楽曲を創出する、そういった想いを共有できるアーティスト仲間と作ったプロジェクト」と語っている。この【DiGiTRONiX】はまさに、アーティスト達の音楽の遊び場「Music Play Ground」として機能している為、GOSPELS OF JUDASの「Play Within A Play」においても、氷室京介名義のオリジナル作品では見られない音楽的アプローチがなされており、全く新しい氷室京介を発見する事になるだろう。※HIMURO.comより抜粋