1978年、高校2年生の時に後にスタンダードナンバーにもなった『オリビアを聴きながら』でデビュー。幼少時からピアノを習い、大好きな松任谷由実などの楽曲の弾き語りが趣味だったそうで、歌手デビュー前はファッションモデルをしていた。因みに杏里という芸名は当時の所属事務所、ボンド企画の社長で高杉敬二の娘である河村和奈へ出生時に名づける名前だったそう。
デビュー曲が小ヒット(その後ロングランを続け、上記のようにスタンダードナンバーとなった)後はシングル、アルバムを定期的に発表してきたが、4年ほどヒット曲に恵まれず1982年に当時のバックバンドのメンバーでもあった小林武史が作曲して花王のCMで使われたシングル盤『思いきりアメリカン』とこのシングルを収録したベストアルバム『思いきりアメリカン 〜I Love Poping World,Anri〜』がヒットした。7月には初のエッセイ集『思いきりアメリカン』を発売した。
それまではアイドルタレントのような活動をしていたが、『思いきりアメリカン』のヒット後に、今後は泉沢勝(現、梶岡勝)のプロデュースでコンサート活動やアルバム製作を中心に活躍できる本格的なアーティストになるようにシフトチェンジをはかるために、泉沢が社長を務めたボンド企画系列の事務所でもあったマーマレードへ移籍した。長渕剛やB'zなどを手がけた舞台監督であるトゥエンティワンクリエイトの市川社長の協力のもと、人をひきつけるステージ、アーティスト杏里を創り上げるべく新しい試みに取り組む。その際イメージ戦略もはかり、サーファー専門誌などにも登場して杏里=夏、海というイメージを定着させ、角松敏生や小林の他に、ブレッド&バターが作品提供した4枚目のオリジナルアルバム『Heaven Beach』を発表して話題になり当時の若者の心をつかんだ。
1983年には当時まだ無名で同事務所所属であった角松に5枚目のアルバム『Bi・Ki・Ni』のプロデュースを任せて、洗練された音楽のイメージ、アーティスト杏里を誕生させたのである。6月に発売した『Bi・Ki・Ni』は自己最高のオリコンアルバムチャート27位を記録した。8月には日本テレビから依頼を受けアニメ『キャッツ♥アイ』の主題歌『CAT'S EYE』を歌ってシングル発売した。当初はアニメの歌ということで本人も初めは嫌悪感を示して乗り気がなくかなりバカにしていたそうだが、思わぬ大ヒットして自身初のオリコン1位に輝き、杏里の代表曲の一つとなる。その直後に発売したシングル「悲しみがとまらない」も連続大ヒットさせて2曲そろってベスト10入りを果たした。12月には『CAT'S~』、『悲しみが~』の2大ヒットシングルを収録した角松フルプロデュースのアルバム『Timely!!』を発表してこちらもオリコン1位の大ヒットとなり、年末の第34回NHK紅白歌合戦にも初出場して杏里は不動の位置を得ることになる。
1984年には日清食品のカップ焼きそば日清焼そばU.F.O.のCMソングに使われて、自身もCM出演したシングル『気ままにREFRECTION』もヒットし、『気ままに~』のアルバムバージョンを収録したロサンゼルスレコーディングのアルバム『COOOL』を発表後にマーマレードから独立して、杏里の家族とともに個人事務所であるコロニーサーフを立ち上げる。独立後に、当時としては珍しかった外国人ダンサーやコーラスを自身のツアーメンバーに迎えて今まで以上にダンサブルで魅せるステージ活動を行いつつ、1985年には角松や小林などが参加した集大成アルバムでシンセサイザーを多用して制作された『WAVE』、1986年にはアジアンテイストな楽曲を多数収録した『MYSTIQUE』、井上鑑をサウンドプロデューサーに迎えロンドンレコーディングした意欲作『TROUBLE IN PARADISE』を発表した(ちなみに、元イエスのドラマー、ビル・ブルーフォードも参加している。)
1987年発売のアルバム『SUMMER FAREWELLS』以降、杏里本人によるセルフプロデュースが始まり、このアルバムから現在まで長年に渡り作詞に吉元由美、編曲に小倉泰治を迎えて共同で楽曲制作したり、本格的に杏里自身で全楽曲の作曲に取り掛かり、アイドルなどに楽曲提供するなどアーティストとしてさらにその名を上げ始めていった。主だって夏によく合うダンサブルな曲やバラード曲が多いのが特徴である。1988年にはアルバム『BOOGIE WOOGIE MAINLAND』、ベストアルバム『MY FAVORITE SONGS』、シングル『SUMMER CANDLES』が大ヒットした。
最大のピークは1989年発売のアルバム「CIRCUIT OF RAINBOW」から1991年の「NEUTRAL」にかけての3作品。「NEUTRAL」においては、自身唯一のミリオン出荷を達成している。この時期にはカナダドライジンジャーエール、東芝ビデオデッキ「ARENA」、カネボウ「テスティモルージュ」のCMに出演した(CMソングも担当)。
1990年には、最初で最後の全国アリーナツアーを敢行。1993年にはシングル『ドルフィン・リング』が大ヒットする。1994年には、1998年開催の長野オリンピック公式テーマソング「SHARE 瞳の中のヒーロー」を発表。
2007年10月1日より月 - 金フジテレビ系、お昼前の情報バラエティ番組「ハピふる!」のテーマソング『もう悲しくない〜ハピふる!〜』を担当。3月3日より『もう悲しくない〜ハピふる!〜』着うたの先行配信開始。4月9日より『もう悲しくない〜ハピふる!〜』デビュー30周年アニヴァーサリーエディションとしてCD+DVDの限定版、及び通常版CDがリリースされた(ユニバーサル・ミュージック)。
2010年10月、JTのルーツのCMソング「根の歌」を歌うユニットコーラスジャパンに参加
2011年4月には、ユニバーサルミュージックからワーナーミュージックジャパンへ移籍することが発表され、7月には移籍第1弾でフォーライフ時代の楽曲や、尾崎亜美が杏里のために30年振りに製作した新曲や日本航空のテーマ曲「I Will Be There with You ~あふれる想い」を含むベストアルバム「Heart to Heart 〜with you〜」がリリースされた。
2013年にはアイビーレコードへ移籍して、7月10日には、80年代のオリジナルアルバムから選曲した楽曲を全曲新録音の35周年記念アルバム「Surf City -Coool Breeze-」をリリースした。