東海林太郎
名月赤城山/野崎小唄
(1)名月赤城山
(2)名月赤城山(カラオケ)
(3)野崎小唄
(4)野崎小唄(カラオケ)
価格:1,121
商品ID:TEDA-15253
メーカー:(株)テイチクエンタテインメント
レーベル:(株)テイチクエンタテインメント
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有 效 期:2006-10-21-10:00止
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1.生い立ち
東海林太郎(しょうじたろう)は明治31年(1898)に,秋田市台所町2番地 (現千秋矢留町9-26)に長男として生まれた。父は東海林大象といい,秋田県庁の建築技師であった。明治41年(1908),父は県庁を退職し,南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社した。父母は妹,三男および四男を連れて満州に渡った。太郎は明治41年(1911)保戸野尋常小学校を卒業,大正5年(1916) 秋田中学校(現秋田高校)を卒業した。音楽好きの少年は,特にバイオリンを得意とした。東海林が自らを振り返ったあるインタビュー記事で,「秋田では『師範の成田か,中学の東海林か』という恥ずかしい賛辞でもてはやされた時代があった」と語っている。成田とは師範学校に通う成田為三のことである。しかし,東海林は音楽一筋の成田とは対照的に異色の道を歩み続けた。大正5年に国立東京音楽学校(現国立東京芸術大学) 器楽科(バイオリン)入学を志したが,父親の反対に遭い,翌年,早稲田大学商学部に入学した。大正11年(1922)同商学部本科を卒業し,研究科(現大学院)に入学,翌年,研究科1年を終了し,満鉄に入社した。所属は庶務部調査課であった。
2.転換期
昭和2年(1927)に鉄嶺図書館長に任命された。そんな東海林だが,荒涼とした旧満州(中国東北地方)の地でもよく一人で歌っていた。音楽への情熱,思いは消えるどころか,ますます燃え上がった。昭和5年(1930),満鉄の図書館長のいすをなげうって満鉄を退職して帰国,クラシックの下八川圭祐氏に師事した。
3.デビューから絶頂期
昭和8年(1933)に日比谷公会堂で行われた第二回音楽コンクールで声楽部門課題曲「我は恨まず」作品48,シューマン歌劇「仮面舞踏会」第3幕第1場「レナードの詠唱」ヴェルディの2曲を歌い,見事入賞した。しかしながら,音楽学校を出ていないこともありクラシック歌手を断念,流行歌手として8年5月「河原月夜」でデビューを果たす。34歳のときであった。翌9年,あの「赤城の子守歌」に巡り合った。この歌は,国定忠治の子分,板割の浅太郎が捕手の叔父を切り,残された叔父の幼い子どもを浅太郎があやした子守歌であった。当時は不況の真っ只中で,この歌に人々は慰められたものであった。そして「国境の町」「野崎小唄」「すみだ川」「むらさき小唄」「旅笠道中」「麦と兵隊」とヒットを重ね,時代を代表する歌手に上り詰めた。この間,歌を通じて舞台や映画にも精力的に動き回った。戦時下の北京の陸軍病院なども慰問している。
4.ステージが真剣勝負
歌うことを自らの道とし,ステージを道場とした。だからステージはいつも真剣勝負。最高の状態でステージに立とうと自らを律した私生活も,きまじめの延長線上にあった。東海林太郎は剣聖·宮本武蔵をこよなく愛した。そして,「一剣護民」という武蔵の言葉を置き換えた「一唱民楽」を座右の銘にした。 東海林太郎 拡大写真 77KB
5.戦後
昭和23年(1948),山陰,四国,関西地方の長期演奏旅行の最終公演地大阪で,ガンと診断された。東大病院に入院し,開腹手術を受けた。「S状結腸ガン」であった。昭和30年(1955)第2回の開腹手術を受けた。昭和38年(1963)に歌手の権利と利益と名誉を守るために日本歌手協会を設立し,初代会長に就任,終生努力した。そして昭和39年(1964)東京?虎ノ門病院に入院,直腸切断手術を受け,人工肛門を施した。こうして,ガンで三度の大手術を経験するが,三たびステージに復帰し,喝采(かっさい)を浴びた。昭和40年(1965)には歌謡界で初の紫綬褒章を受賞した。そして昭和47年(1972)に東海林太郎音楽事務所で打合せ中倒れた。10月4日,脳出血のため亡くなった。東海林太郎は死ぬ直前まであの”東海林節”を高らかに歌い上げた。葬儀はわが国初めての音楽葬として「密葬」が執行された。享年73才であった。菩提寺は秋田市土崎港中央3-7-2 浄土宗本願寺派 西船寺である。
資料:秋田魁新報 1997年(平成9年)9月25日他
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